犬の不思議を科学する⑰犬の健全性とスタンダードのジレンマ(5) -遺伝的多様性を高めていくために

2020.03.30

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前回、インブリーディングと特定のオス犬の繁殖への多用は犬種内の遺伝子プールを狭めることにつながり、それが犬全体の遺伝子プールを、そして遺伝的多様性を失わせてしまう危険性があることを説明しました。では、遺伝子プールを広げていくことには、どのような意義があるのでしょうか。


遺伝子プールを広げることで、犬の遺伝的多様性を高めていく

滝の前に座っているワンちゃん

犬は犬という生物として、どの犬も同じ遺伝子セットを持っています。同じ遺伝子セットを持っていながらも多種多様な姿形や特性を持っているのは、犬種の特徴を作り出すこととなる遺伝子に突然変異が起きているからです。


たとえばダックスフンドやコーギー、バセットハウンドなどの犬種の特徴である短い脚は、あるひとつの遺伝子変異が原因となっていることが明らかになっています。同じようにそれぞれの特徴、毛色や毛質、体の大小、骨格の違いなどにも、数々の遺伝子が影響しています。


このように、変異した遺伝子の組み合わせが異なることで、犬は犬でありながらさまざまな特徴や、犬種としての特性を持ち合わせることができています。犬種を維持していくためには犬種としての特性を作り出している遺伝子を受け継いでいく必要があります。


しかし一方で犬種内での特徴が強く表れ、個体差が小さくなればなるほど、遺伝子の類似性が高まっていきます。そうなると、犬種内にあるすべての遺伝情報のバラエティ、すなわち遺伝子プールは縮小され、いわゆる血が濃い状態になっていきます。また、生物にとって有害となる突然変異したDNAは、集団(犬種の総頭数)が小さいほど自然淘汰されにくくなります。


これら二つ、①犬種の総頭数少ない、②血が濃い、という状態がそろうと、病気が発症しやすくなったり、環境の変化に適応していく能力が限られてしまうようになるため、絶滅の可能性も急激に高まります。そのため、病気や環境の変化に適応して犬種を存続させていくには、犬種内にさまざまなタイプの遺伝子がストックされている、すなわち遺伝子プールを広げていくことが強力な武器となるのです。


また、犬種に限らず個体ごとに個性が異なるのは、まったく同じ遺伝子(DNA) のタイプの組み合わせを持つことがないからです(クローン動物は除きます)。望ましい特性を継承しようとして、血縁の近さを考慮せずに人為選択を続けると、よき特性を担う遺伝子以外の部分も似通ってきてしまいます。犬種に望ましい特性を保ちながらもできうる限り犬種内での遺伝子プールを広げていくためには、よき特性を持った血統の異なる集団の数を増やしていくことが重要です。それと同時に、犬種特性とは関係なく心身全般に健康な個体が持つ、さまざまな遺伝子タイプが犬種内にストックされるように幅を持たせていくことも大切になります。それが、犬種を超えて犬という生物としての遺伝的多様性を高めていくことにもつながっていくからです。


遺伝子の多面的作用も考慮しなくてはならない

2頭のシャーピー犬がフローリングに伏せている

特定の遺伝子の排除または広がりは、まったく別のところにも影響を及ぼすことが往々にしてあります。なぜなら遺伝子の多くは、複数の役割を持っているからです。


『犬の健全性とスタンダードのジレンマ(2) - スタンダードに関連する遺伝性疾患』でも触れましたが、シャー・ペイのシワとムチン沈着症、ローデシアン・リッジバックのリッジヘアと類皮洞、ヘアレスドッグと欠歯といったように、スタンダードの形質と病気とが関連していることがあります。ひとつの遺伝子の変異が、ふたつ以上の形質に影響を及ぼしているからで、そのような現象を遺伝子の多面的作用といいます。


たとえば大切にしたい特性と排除したい形質とがひとつの遺伝子変異に由来するとき、どちらをどのように選択していくべきかというジレンマが生じます。けれど、遺伝子の多面的作用は決して悪いことばかりではなく、ひとつの遺伝子変異から複数のいい特性が得られる可能性もあれば、複数のよくない形質が排除される可能性も考えられます。


ですので、目に見えてわかりやすい特性ばかりを求めると、それまでほとんど気づかれずにいた好ましい特性や、遺伝子の多面的作用により新たに生じた別の特性までをも遺伝子プールから排除してしまうことになりかねません。つまるところはやはり、どれだけいろいろな遺伝子タイプのストックを蓄えておくことができるかがとても大切になってくるわけなのです。


KCは215犬種についての詳細をサイト上に公表

前回紹介した、イギリスのケネルクラブ(KC)公認の215犬種について解析した結果は、KCのサイト上で公開されています。またそこでは、インブリーディングの割合を調べ、近交係数から Effective population size(有効集団サイズ、有効個体数)を割り出したデータなどが記載された犬種ごとのレポートを見ることができます。Effective population size とは、ある個体群がその特徴を維持したまま生存していくために必要とされる個体数のことです。すべての個体が繁殖を行うわけではないので、繁殖する頭数(有効個体数)は集団内の個体総数より必然的に少なくなります。


Effective population sizeを測るための数式からでてきた数値については以下のように定義されています。


<参照>

http://www.thekennelclub.org.uk/media/695071/dog_health_infographic1.pdf


・100より大きい場合:遺伝的多様性が保たれており犬種の維持も可能である

・50~100い:その犬種の遺伝的多様性は失われている状態にある

・50より小さい:インブリーディングによる有害な影響に高いリスクでさらされている


KCの登録犬種の中で解析可能であった116犬種において、最も小さい数字となったのがマンチェスター・テリアの23.8、最も大きな数値だったのがボルゾイの918.8でした。また、100以下が68犬種、その中で50よりも小さかったのが29犬種であり、調査対象犬種のうちの約33%に黄信号が、25%に赤信号がともっていることが示されています。データの犬種一覧はリンク先論文の下のほうにあります。Additional file1,2でチェックすることができます。

犬の健全性を高めていくには遺伝子プールを広げていくことが大切。では、私たちにできることは?

犬の健全性を高めていくには、インブリーディングを減らして(近交係数を低下させる)犬種内に健康で望ましい遺伝子のバラエティを増やしていくこと、つまり、健康と遺伝的多様性を大切にした繁殖が必要だという指針をKCでは掲げています。DNA検査ができる場合は必ず行い、健康な家系で、異なる集団の犬との交配をしていくよう心がけることも重要です。


けれども実際のところ、私たちは犬と暮らしていても直接犬の繁殖にかかわることはめったにないはずです。ならば私たちは犬たちの健全性を高めていくために何ができるのでしょうか。


日本の現状の問題のひとつに、犬の福祉を守る繁殖をしない業者が存在していることがあげられます。管理の行き届いていない繁殖環境下では母犬子犬両方の体の健康に悪影響がでるばかりか、子犬の問題行動の発生を高め、飼育放棄などのさまざまな問題につながってしまうケースが見られます。自分自身で納得のいくブリーダーを探して心身ともに健康な犬を迎えようとする人がすこしずつ増えてきていると感じますが、全体の割合からすればまだまだほんの一握りでしょう。


犬の健全性は繁殖にかかわる一部の人だけの力で作れるものではなく、犬を愛する人々の力が合わさることで生み出していけるものだと思います。そのような人々が犬への造詣を深めていければ、犬の福祉を無視するような安易な繁殖を容認しない風潮が生まれ、必ずや犬の健全性は高められていけると思っています。


【参考文献】

・Trends in genetic diversity for all Kennel Club registered pedigree dog breeds

【参考サイト】

・The Kennel Club

・The Institute of Canine Biology


【関連記事】

・犬の健全性とスタンダードのジレンマ(2) - スタンダードに関連する遺伝性疾患

※本記事はブログメディア「dog actually」に2016年3月23日に初出したものを、一部修正して公開しています。


【この連載について】

いつも私たちの身近にいてくれる犬たち。でも、身体のしくみや習性、心のことなどなど、意外と知らないことは多くあるものです。この連載から、“科学の目”を通して犬世界を一段深く見るための、さまざまな視点に気づくことができるでしょう。


【尾形聡子 プロフィール】

ドッグライター。生まれ育った東京の下町でスパニッシュ・ウォーター・ドッグのタロウとハナと暮らしている。ブログ『犬曰く』雑誌『テラカニーナ』にて執筆中。著書に『よくわかる犬の遺伝学』。

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